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「経済思想」期末レポート2004

今後の「市民的公共圏」のあり方――「グローバルな公共圏」と「民主的法治国家の公共圏」

17000040 経済学部経済学科4年 広瀬隆之

 

 

1、はじめに

 このレポートではユルゲン・ハーバーマス著『公共性の構造転換』細谷貞雄訳(未来社、1973年)によって示された、「市民的公共圏」について学習したことをあらわし、それに対して現代の視点から今後市民的公共圏がどのように形成されていけばよいのかということについて考察する。その考察において、「情報技術」と「法制度」という二つの事柄に注目し、一つは情報技術、特にPCの活用での世界的なネットワークの拡大による、「グローバルな公共圏」の形成、次に法学の考え方でも比較的新しい「法と経済学」の論理を用いた、「民主的法治国家の公共圏」の形成という二つの具体的な公共圏のあり方と展望を示す。

 

2、公共性の構造転換――「市民的公共圏」とは

 まずハーバーマスの明らかにした事として、公共性の歴史的把握について触れなければならない。われわれがもっている「公共」の概念は、社会的な構造、つまり政治、経済、教育、文化、価値観などの様々な要素の相互作用によって形成されていくということであり、何が「公共的」であり、どのような場面においてそれが成立しうるかは、その歴史的場面によってことなる概念なのである。その上で現在われわれが公共的であると認識しているものに、ある程度市民権を見出す事ができる根拠は、国や政府と国民が役割として、または法的範疇において区別されているからである。現在の日本ではこのような公的部門におけるモラルハザードが進み、深刻な社会問題となっている。その主要な原因の一つとして、「公」が閉鎖的で既得権益の確保を追求する組織となってしまっているということが挙げられる。ここで、われわれがこの公的部門の腐敗を解決する仕組みとしてとりうるのが、「市民的公共圏」を構築であると考える。なぜなら市民的公共圏を構築することで、政府や議会を含む公的部門を国民の審議や評価のもとにさらすことができるからである。つまり監査機能としての国民を形成することができるからである。しかし現在日本では、国民に監査能力があるとは思えず、また公共圏における活発な議論が政策や国家の理念に反映されているとは思えない。この原因として、ハーバーマスは、マス・メディアの私益化、また国家的官僚のパフォーマンス重視の傾向について論じているが、まさにそのような状況であると考えられる。以下ではハーバーマスが示した、公共性の構造変換がどのような変遷をたどったのかを明らかにし、公共圏の政策批判的役割が重要であることを導く。

 ハーバーマスによれば、公共圏とは「人々が共に関心を抱く事柄について意見を交換し、政治的意思を形成する言論の空間、とりわけ非国家的かつ非市場的な領域としての市民社会に自発的に形成される強制や排除のない言説の空間」(ハーバーマス、『公共性の構造転換』、未来社)のことである。公共圏の成立段階として、17世紀における夕食会、サロン、喫茶店などに、知識人階級が集い、国家や政府に対する議論を行い、それを公論として形成したことが重要な意味をもつ。そして、その際の情報を開示する、流布させる役割を持ったのが「新聞」や『閑話』『スペクテイター』『ガーディアン』といった「週刊誌」である。これらを発行する事で万人が参加しうるという必要条件を満たし、同時にそれらの発行物における政治批判や議論が、民衆の道徳規範としての地位も確立していった。こうして、このような私人の公論による批判的機能によって、公共的な営みは旧来の領主、国王、貴族など閉鎖的で私的ものから、市民が参加可能な開放的なものへと変容していった。そしてこのことは、現在の代議制度、大衆政党の成立の基礎的な概念をつくるうえで非常に大きな役割を果たした。

 ただ一方で、このような公論もあくまで私的欲求の集合でしかないという考えもある。また、マス・メディアの公的機能として考えられたことも、結局は私的商品へと成り下がってしまい、そこには国家や政府に対する監査機能が存在せず、政府の単なる情報伝達係りへと成り下がっている。その様な状況を打破するためには、もう一度公論を形成し、公共圏を獲得していくしかないだろう。そしてそれは代表者の独裁というジレンマを孕みつつも、「至上主義的な志向ではなく、公論によって相対化された秩序の中に社会体系付けられるべきであるという考え。」(同上書、111ページ)を持ち、監査機能としての公衆を育て上げるべきである。これに関連して「もし善良な専制君主というものが確保されうるならば、専制君主制は最良の統治形態であろうか。」(J.S.ミル、『代議制統治論』、岩波文庫白、186168ページ)という問いで始まる、「第三章理想的に最良の統治形態は代議制統治であるという事」の記述にも触れたい。これは一見傑出した個人の絶対的な能力によって、最良の統治形態を導けるかのように思われるが、実はこれは「根本的で最も有害な誤解である」ということだ。なぜなら公共行政部門を形成しようとすれば、当然国民を公務に投入しなければならず、国民にその様な能力を求め、育成しようと思うならば、国民の政治的関与を積極的に行うしかなく、善良な専制君主の登場は逆に愚弄な民衆による官僚の下に統治せざるを得なくなるのである。そのことをミルは「ものごとを神慮にまかせるように統治にまかせっ放しにするのは、それについてなにも注意も払わず、その結果に同意できなければ自然の配慮として受容するのと同義である」とし、「国民的凋落」を招くとしている注1)

 

3、今後の「公共圏」のあり方――情報技術による「グローバルな公共圏」

 つまり、国民が公衆化し、公論を形成する事は政府の政策やミスリードに対する監査機能、抑止機能として働くだけでなく、より良い政府を作り上げていくための土台としても必要なのである。そして公論を形成し、代表者によって何らかの政策が批判されたとしても、それは代表者の政治に対する参加から代表者の支配へとシフトしてしまうという矛盾も含んでいる事になるだろう。またハーバーマスやM.フリードマンが懸念する、公共圏の私有化に関する問題もある注2)。しかしこれに対しても公衆の監査システムをきちんと機能させ、それを継続してゆくことで回避するしかないだろう。また社会主義的統治に関しても言及するならば、以下の点から好ましくない。つまり公論が育たない、または抑圧されるであろう体制は、民衆の公共に対する意欲をそぎ、公論を形成するインセンティブを奪うからである。

以上を踏まえて情報技術活用による、新たな公共圏の展望に付いて示す。『公共性の構造転換』が書かれた段階では、現在のような発達したネットワークがまだ存在していなかったため、この事について具体的に言及が行なわれていない。しかし我々が生活していく上で現在のネット技術は無視できないものであり、開かれた公共圏の成立にとってかなり有益であると考える。インターネットの発達により、同時期的に大量の情報を多数の人に配信または受信する事が可能となることで、われわれのコミュニケーションにおける時間的、空間的、費用的な制約は劇的に解消された。しかし問題点として、匿名的な情報の氾濫があり、われわれの情報活用能力がとわれている。E-democracyは可能か、非競合性(non-rivalness)と非排除性(non-excludability)がインターネットにあてはまるのか、まだ議論していかなくてはならない事は多いが、少なくとも情報技術による開放的で自由な情報のやり取りは、新たな公共圏の成立を保障しうるものであり、また世界的な問題を議論できる「グローバルな公共圏」を成立させうる技術である。そしてそのためにも情報技術に関する制度の確立、そして世界的な技術の標準化が急がれる。

 

4、「公共圏」における権利の濫用の防止――「民主的法治国家の公共圏」

これまで公論の政府を批判的にコントロールする機能について触れてきたが、次に公共圏のもう一つの機能として、立法や政策をめぐる決定を人々の意思によって積極的に根拠付ける機能に関して述べる。ハーバーマスはルーマン同様西洋「近代」の本質を、いわば「自然的秩序の崩壊」とこれに対する対応とに見る点で一致している。前近代において法と道徳、存在と当為の区別は考えられなかった。しかし資本主義社会が成熟し分業化が進むにつれて、それらの「自然秩序」が分離される。そして自由主義的利害調整が重要視されるようになる。そして政府の役割としては「第一に、政府は活動範囲を制限されなければならない、・・・言い換えれば法と秩序を維持すること、私的契約を履行させる事、競争市場を育成する事でなければならない。」「第二の普遍的原則は、政府の権力が分散されなくてはいけない。」(M.フリードマン『資本主義と自由』、マグロウヒル好学社、1977)という、いわゆる小さな政府として成立するべきである注3)

ここで三つの事例を挙げる。初めに「@牧草地共有の悲劇」に関して述べる。羊などの家畜を、勝手に牧草地に放牧することは、管理を欠き、牧草の極度の浪費をもたらすことになる。その結果生産能力の低下をもたらし、また牧草地自体を再生産不能な状態に追い込んでしまう可能性もある。このことを防ぐためには@-(1)一人あたりの放牧を制限する、@-(2)一頭あたりの放牧に課税をする、@-(3)土地を入札などによって分配する、@-(4)誰かの私有地にすることで管理責任を負わせ、効率的な配分を決定する、といったことが対策として挙げられるだろう。

 次にゲーム理論的題材として「A地下資源の争奪」に関して述べる。今、石油がある一定の面積内に眠っているとする。その開発にA、B二つの企業が当たったとする。このとき、互いに一本ずつ油井を掘ったとすると、$400万:$400万の利益を得る、しかし、一方が二本、もう一方が一本油井を掘った場合には、$500万:$200と二本油井を掘ったほうが圧倒的に利益を得る。また両方が二本ずつ掘った場合には$300万:$300万になる。

 

 

 A二本           A一本

      Aの利益300

 

 

Bの利益300

                     Aの利益200

 

 

 Bの利益500

     Aの利益500

 

 

 Bの利益200

      Aの利益400

 

 

 Bの利益400

      

【関係を図表化】

 

 B二本

 

                              

 

 

B一本 

 

 

本来ならば、A、Bがそれぞれ一本ずつ掘ったほうが、全体として$800万の利益が上がるため、効率的である。しかし片方が二本掘った場合、その企業の利益が上がるばかりか、一本だけの企業の利益が著しく損なわれる。であるから、互いに牽制する形で二本掘ることになる。結果的に一本ずつ掘ったときの利益から、$100万減少の$300万の利益に落ち込み、そればかりでなく全体としても、$600万の利益となってしまう。このような関係の場合は協調が難しく、一人のプレーヤーの利己的な行為が、結果として互いに、また全体としての悲劇を起こしてしまうのである。また片方の企業が三本目を掘ることによって、さらなる悪循環を起こす可能性は、十分に考えられ、現実的に資源の枯渇の問題に直面することになる。このことに対する方策として、前述した@牧草地の悲劇、同様の方策を採ることができる。また法律によってこのような地下資源に対しては、権利の乱用の禁止を設けることで防ぐことも可能である。

 これらのことに関して、ハーディンは、このような共有地の悲劇を起こさないためには、希少な材にある一定の“レント”を課すべきであるという立場をとり、そうしなければ不適切な分配が起こり、最終的に生産能力の低下や資源の枯渇を招くとしている。

 最後に「B野生動物・植物の保護」に関して述べる。例としてアフリカ像保護の事例を取り上げる。アフリカ像は象牙の採取を目的に、大量に殺され絶滅の危機に瀕したのであるが、それに対する対策として、ケニア、タンザニア、ウガンダでは象牙の売買禁止を掲げた。しかし、結局は密猟を抑止することができず、頭数減少に歯止めをかけることはできなかった。一方、ボツワナ、ナムビア、ジンバブエでは、私有する像に関しては、象牙の取引を認めるという対策を講じた。その結果、像の生産によって、逆に頭数が増えた。この結果からわかることは、何らかの共有財に対して、所有権を認め、再生産のサイクルを作ることで、悲劇が起こらずにすむということである。このように、所有権を認めることで、資源を効率的に分配しようとするインセンティブを高めることも、悲劇を回避する上での重要なファクターとなるのである。

 以上三つの事例を見てきたが、公共財の悲劇は、自己利益のために際限なく利用されるという性格からもたらされる。それを抑止するためには、(1)外的な抑止、と(2)内的な抑止、が考えられる。

 (1)外的な抑止、は、事例@、Aで見たもので、第三者による禁止、あるいはレントの徴収によって、その公共財の利用を抑止するものであり、このことによって、利己的な悲劇を抑止し、全体的に望ましい効率配分を、外的要因によってもたらそうとすることである。そして(2)内的な抑止、は、事例Bで見たような、所有権を認めることによって、効率的な利用や再生産へのインセンティブをもたらし、むしろ利用者の利益追求が結果として悲劇回避の方策となることである。つまり(1)、(2)をどの場面で使うか、またはどうバランスよく使うかで、公共財の悲劇を抑止することができると考える。

以上のような公用地の悲劇は「公論」の形成だけでは防ぐ事のできない問題ではないだろうか。「法と経済学」は非常に新しい分野であり、まだ適応範囲に限界があると考えられる。しかし「法は法である」といったような自律的発展をなしてきた法学の分野に対して、1960年代以降アメリカで起こったリアリズム法学の流れを汲んだ、法を社会、経済学、フェミニズムに結び付けようとする流れ、そして「法は政治である」とする立場は、より一層実践的な法解釈を可能にし、また法学を国民の下にさらす「民主的法治国家の公共圏」の成立に有益な概念である。この事について我々はさらに議論を深めていくべきである。

 

5、結論

 情報技術によるネットワークと、「法と経済学」の概念による新たな公共圏の構築に関して述べた。現在、日本国民の政治的関心の低下は、将来的に日本の停滞を引き起こし、また公的部門の閉鎖的な体質を助長するだろう。今こそわれわれは公共圏を形成し、行政に関する批判を積極的に行う事で改善し、また未来の人的資本を育成していくべきである。その際、情報技術は、より便利で身近な交流空間を作ることで、国民の積極的な参加を可能とする非常に有益なツールである。情報技術を活用する事で開かれた行政を公と民両方の局面から形成していくよう今後努力していくべきである。また、インターネットにより世界中にアクセスが可能ということから、われわれは環境や戦争などの国際問題に対して各国からの多様な意見を取り入れた「グローバルな公共圏」を形成するべきである。また「法と経済学」でしめした、実践的な論理を学ぶことで、法制度の議論に積極的に関わっていくことができる。その事によってわれわれは「民主的法治国家の公共圏」を成立させていくべきである。

 

 

1)「善良な専制が意味するのは、専制君主に依存する限りでは、国家の役人による積極的な抑止は何もないが、しかし国民の集合的利害の全ては、かれらにかわって処理され、集合的な利害にかんするすべての思考も、かれらにかわっておこなわれ、そして国民の精神が、かれら自身の活力のこのような放棄によって形成され、この放棄に同意しているという統治である。」(72ページ)

 

注2)「(自由市場社会が公論を通じて形成されてきた)しかしながら、産業資本と競合する利益集団、とりわけ貴族的地主にせよブルジョワ化した大土地主にせよ、土地に基づく利益集団(landed interest)は、自由主義的局面に至ってもまだ健全であり、みずからイギリス議会を支配し・・・必ずしも市民的交易の必要に応じた立法が保証されないであろう。」(ハーバーマス、『公共性の構造転換』、未来社、111ページ)

「もし経済力が政治的権力と結び付けられるならば、権力の集中はほとんど不可避的であるように思われる。これに反して、もし経済力が政治権力とは別な人々の手に保たれているならば、それは政治権力への抑制ないしは対抗力として役立ちうる。」(M.フリードマン、『資本主義と自由』、マグロウヒル好学社、197716ページ)

 

注3)このことについて、フリードマンは「いやしくも個人的自由の大きな要素が認められ、普通人の普通の生活の幾分の美しさが認められ、・・・生き生きとした希望が見出されたところではどこでも、私達は同時に、民間市場が経済活動を組織化するために使われている主要な仕組みであると見出したのである。これに反して、民間市場が大部分抑圧され、国家が市民の経済活動を細部に渡って統制しようとくわだてていたところではどこでも、いいかえれば、細部にわたる中央経済計画が支配していたところではどこでも、普通の人は政治的な束縛を受け、生活水準は低く、さらに一層重要な事には、将来に対する大きな希望とか、自分の運命を自分で支配するといったいっさいの考え方を奪われていた。」とのべており、市場原理における自由主義の必要性を述べている。(M.フリードマン、『資本主義と自由』、マグロウヒル好学社、1977、序章xページ)

 

 

(参考文献)

1、ハーバーマス、『公共性の構造転換』、未来社

2、佐々木毅、金泰昌編『公共哲学――21世紀公共哲学の地平』、東京大学出版会、2002

3、佐々木毅、金泰昌編『環境問題と公共性』、東京大学出版会、2002

4、佐々木毅、金泰昌編『日本における公と私』、東京大学出版会、2001

5、J.S.ミル、『代議制統治論』、岩波文庫白、1861

6、林田清明、『法と経済学』、信山社、2002

7、M.フリードマン、『資本主義と自由』、マグロウヒル好学社、1977

8、田中成明他著、『法思想史』、有斐閣Sシリーズ【第二版】、2003

9、政治学辞典、弘文堂

経済学辞典第3版、岩波書店